【あかね】プロフィール

【あかね】プロフィール

ご覧いただきありがとうございます。

あかねです。

「今を楽しく未来も豊かに」をモットーに

夫と1歳、4歳、7歳の子と暮らす36歳の銀行員です。

子ども達との時間を増やしたい!

家で「いってらっしゃい」「おかえりなさい」を言いたい!

そんな思いから、

育休ラストイヤーに脱銀行員を目指し、自ら稼ぐ力を身につけるべく奮闘中です。

これから、私の経歴をご紹介します。

1987年誕生~小学生 超平凡な6人家族

神奈川県に生まれ、祖父母と専業主婦の母とサラリーマンの父、

4つ下の弟と暮らしていました。

母はとにかく優しくて、私にとって心の安全基地でした。

幼いころからあまり怒られることがなく、

同じことをしても友達は怒られているのに私は怒られない。

幼いながらに

「なんでうちのお母さんは怒らないんだろう?こんなに優しくていいのかな?」

「私は甘やかされてるのかな?」と不安になるくらいとても大切に育てられてきました。

地方から1人出てきて父の実家に同居し、

子ども2人を育てた母には尊敬と感謝の気持ちしかありません。

私自身が子ども3人を育てる親になった今

母の偉大さを心の底から実感しています。

サラリーマンの父は幼い時の私にとって怖い存在でした。

何でもよく知っていて、何でもできる父。

とても頼りになる存在でありながら、

何かと言われるので父がいる日はちょっと憂鬱でした。

でも今思えば、手作りの秘密基地を作ってくれたり、

雨の日や帰りが遅くなった日は送り迎えをしてくれたり。

子どもたちのために尽くし、たっぷり愛情を込めて育ててくれたと思います。

しかし、思春期の私と父の関係は最悪。

幼い頃は家の中で偉い存在だと思っていた父の発言に、

次第に疑問を感じ始めました。

なにかと否定から入ったり、

母を見下す発言を聞いてはイライラし、

父に対してかなり反抗的な態度をとってきたと思います。

母は、思うことがあっても絶対に悪口を言わない人でした。

娘の私から見ると明らかに父の言い方が悪いと思うことも、

飲み込んで冷静に対処していました。

父に対して「この人は自分に自信がなくて、こういう形でしか愛情表現できないんだな」

と子どもながらに納得できたのは

母の神対応のおかげだったと思います。

義実家に同居する母には大変なことが多かったでしょうが、

幼少期は祖父母にも沢山遊んでもらい、

家族6人で暮らしていることが自慢でもありました。

両親の教育と、成果の出ない私

両親は全て「子どものやりたいを優先」させてくれました。

習い事はバレエ・ピアノ・習字・水泳・英語・通信教育・学習塾など、

私がやりたいと言ったことは全てやらせてもらっていました。

母は50万円する英語の教材を父に内緒で買って、

後でバレて怒られたというエピソードも。

私はその教材が楽しかったことは覚えてるけど、

残念ながら50万円の価値を発揮してはくれませんでした。

それだけのお金と手間をかけてもらっても、

私自身は何をやってもそれなり、飛びぬけるもののない

ザ・普通の子に育っていきました。

自分の意思を尊重してくれていたことはありがたかったけど…

どの習い事も大して練習もせずダラダラ続け、

無駄な月謝を払わせてしまったと思います。

中でも印象的だった習い事は、バレエとピアノと習字です。

バレエは2歳の時に始めた初めての習い事。

人見知りだった私は、母がいなくなるのがとにかく嫌でよく泣いていました。

それでも2年に1度の発表会でモチベーションを取り戻しながら、

何とか小学校2年生まで続けました。

大人になってみると「やってよかった」という気持ちの方が大きく、

後々自分の娘をバレエ教室に通わせることにつながります。

ピアノは、友達の影響でやりたいと母に言い、5歳の時に始めました。

おばあちゃん先生がゆる~く教えてくれて、

練習をしなくてもあまり怒られないゆる~い環境で

結局大して上手くならないまま、高校生まで続けました。

今ではちゃんと練習してこなかったことに大後悔。

最大の思い出は、中学の夏休みの宿題を助けてもらったこと。

ピアノそっちのけで、「銀河鉄道の夜」の読書感想文を手伝ってもらった日々は今でもよく覚えています。

習字は、小学生になってから友人と始めた習い事。

先生がとってもよく褒めてくれて、

私の自己肯定感を上げてくれていました。

先生のことも、書くことも大好きで大学生まで続けていましたが、

大学時代は他のことが楽しすぎてほとんど行かず、

高い月謝だけを払い続けていました。

1998年 小学5年生からの中学受験

5年生になる前の2月、地域でも有名な進学塾の模試のチラシが届きました。

この時、「中学受験のための塾」ということも理解せず、

友達が行くというので試しに受けてみることにしました。

これが私の人生の転機となります。

当時、地元の中学の評判がよくなかったこともあり、

母は「あかねがやりたいなら」と受験に賛成でした。

後から聞いた話ですが、小学校3年生の時に亡くなった祖父は私に中学受験をさせたくて、両親は「塾に行かせないのか?」と言われていたようです。

でも両親は「本人がやりたがってないから」と止めていたそう。

本人が希望するまで押し付けない両親の教育方針には本当に感謝しています。

訳もわからず通い始めた進学塾。

最初のクラス決めテストは散々で、8クラス中8番目。

テストの成績でクラスと席順が変わるスタイルの塾で、

最下位クラスのかなり後方の席にいました。

当時の私は何も考えていなかったけど、

私が親の立場だったら超深刻です。

そこに救世主が現れました。

ちょうど10年前、娘二人の中学受験を成功させた伯父が

家庭教師を買って出てくれたのです。

近所で魚屋を営んでいた伯父。

毎日仕事帰りに勉強を教えに来てくれて、

21時、22時くらいまで勉強していました。

伯父のおかげで、私の成績は分かりやすく上昇していきました。

毎月模試を受けるたびにクラスが上がり、

ほぼクラスの5位以内にいました。

毎月、面白いようにクラスが上がり続けたものの、

上から2番目のクラスまで行ったところで頭打ち。

最後まで、最上位クラスには行けませんでした。

それでもここまでいけたのは伯父のお陰。

もし1人で勉強してたら…と思うとゾッとします。

この受験期間、両親に「勉強しろ」と言われた記憶はほとんどありません。

伯父は色んなネタを交えながら面白おかしく教えてくれたので、毎日の勉強も苦ではありませんでした。

そのお陰で、受験勉強を「辛い」「やめたい」と思ったことは一度もありませんでした。

母は、私に色んな選択肢を与えようと、数々の学校見学に連れて行ってくれました。

小学生ながらに恋愛を楽しんでいた私は、女子校にちょっとした抵抗を感じました。

でも伯父がおすすめするなら、と従姉と同じ女子校を第一志望に決めました。

受験の日は全く手ごたえがなく、

母曰く「暗い顔をしてたからダメだったのかと思った」とのことでした。

翌々日、合格発表に行くとまさかの合格。

第一希望の学校に行けることより、

母を喜ばすことができたのが嬉しかったような記憶があります。

ここからは完全に敷かれたレールの上を歩み始めます。

中学時代~平凡な家庭で育った私が感じた大きなコンプレックス

私が入学した私立の中高一貫校は、幼稚舎からあるお嬢様学校でした。

入学して最初に仲良くなった友人はクラスの中心グループの数人。

内部進学してきているれっきとしたお嬢様。

都内の高級住宅街に住む

有名企業の社長令嬢や弁護士の娘、医者の娘など、

今まで関わったことのないタイプの友人でした。

育ちがいいこともあり性格もよく、成績優秀、それでいてパワフル、そしてコミュニケーション能力も高い、非の打ちどころのない友人たち。

スポーツ万能、バイオリンがプロ級、オリンピック選手候補などなど…

仲良しグループの中に1人ポツンと、何の取り柄もない、平凡な家庭で育った私がいました。

友人たちはアグレッシブで学校行事にも積極的。

それは私に合っていて、

一緒に行動してそれなりに楽しく過ごしていました

しかし、時折それまで感じたことのなかった様々なギャップに苦しめられました。

1つは友人たちが何をとっても優秀で、自分のできなさを実感してしまったこと。

もう1つは住む世界の違いでした。

例えば

ブランド物の話、海外旅行の話、幼児教室の話。これまでの私には無縁だった話題が

どんどん飛び交っていくのです。

バーバリーのマフラー、ルイヴィトンの財布はマストアイテム。

今でこそブランド物に全く興味のない私ですが、

この時は会話に入れないことが悲しくて、

母にバーバリーのマフラーをねだって買ってもらった記憶があります。

ブランド物を持っていないことも、自分だけ都内に住んでいないことでさえも、

引け目に感じるようになっていきました。

母は私に何も言いませんでしたが、

きっと私以上に金銭感覚の違いを実感していたのではないかと思います。

今まで何不自由なく暮らし、「うちは貧乏」なんて感じたこともなかったのに、

ここに来て初めて「貧富の差」を感じてしまいました。

今思えばこれが私がお金に大きなコンプレックスを感じた出来事、

そしてお金に興味を持つきっかけになった出来事だったのかもしれまん。

また、自分の能力の無さにもコンプレックスを感じるようになりました。

それまで割と何でもやってみたいタイプでしたが、自信がなくてやらない、ということも増えていきました。

苦痛だった国語の授業

私はこの学校の国語の授業がとにかく苦手でした。

これまでの受験勉強とは全く違う、答えのない勉強。

とにかく自分の意見を求められる授業。

文章から心情を読み取り、文章にする。

国語のテストはほぼ記述問題で、

いい回答はテスト後にコピーされ、

みんなに配られていました。

テストは紙に書くだけだからまだいいものの、

その場で当てられてアドリブで自分の考えを話す授業はさらに苦手。

当てられたらどうしよう、と常にハラハラ。

他の友人たちの優秀な回答にいつも押しつぶされそうになっていました。

定期的に回ってくる3分間スピーチも大の苦手。

とにかく自分の意見を求められる国語教育が私には苦痛でしかありませんでした。

しかしだんだん、自分の意見でもなんでもないけど、「こう書いたら点数もらえるかな」という感覚が分かるようになり、

ある程度の成績は取れるようになっていました。

もちろんこんな能力が求められているはずもなく、悪い点数の取り方をしてきました。自分に嘘をついているような感覚は拭いきれません。

3年間で心にもない「正解」を書き連ねることが得意になり、間違った方向に

伸びてしまった私でした。

(h2)2002年中学卒業と共にアルバイト開始

お金のコンプレックスがあったからか、

中学時代から自分でお金を稼いでみたいという気持ちがありました。

卒業と同時にアルバイト探しスタート。

生まれて初めて履歴書というものを書き、地元のファストフード店へ。

無事、時給700円で採用してもらい、中学最後の春休みから働き始めました。

そもそも人見知りな私が、店頭で「いらっしゃいませ」と言うなんてハードルが高すぎて、

しばらく言えなかった記憶があります。

レジ打ちを間違えたり、働きっぷりも酷かったはず。

それでも根気強く付き合ってくれた店長には感謝です。

1年間働いたところで、クリスマスが強制出勤だったことに不満を感じて辞めることに。

そして、気になっていたパン屋さんでアルバイトを開始しました。

古き良き時代。売れ残った大量のパンを持ち帰っては、

習字の先生の自宅に持って行ったり、翌日学校に持って行って友人に配ったりしていました。

今となってはありえないですね。

育ちのいいお嬢様ばかりに囲まれていた中学時代に比べ、

様々な環境で育ってきた友人ができたのはとても新鮮でした。

結局このバイトは大学卒業まで続け、

出会った仲間とは今も連絡を取り合う貴重な関係となりました。

アルバイトで稼いだ月1〜3万円程度のお小遣いも私にとっては大金。

お金持ちになった気分でした。

その時すでにブランド物への執着はなくなっており、

特に使い道もなかったけど、友人とカラオケや食事に行くことでちまちま使っていました。

この時の私の金銭感覚はおかしくて。

「使いすぎないように」と、1回につき3,000円だけ、210円の手数料を払って何度も下ろしていました。母に「もったいない」と何度言われても、全然響かなかった私…。

意味がわかりません(笑)

2002年高校〜部活にハマる高校時代

私は内部進学で高校に入学。

外部入学の生徒も入ってきて、

自分と近い一般的な家庭で育った友人も増え、気持ちが楽になりました。

高校生になったら部活を頑張りたい!と楽しみにしていた私。

部活をダンスと吹奏楽で最後まで悩み、吹奏楽部を選択しました。

今でもダンスをやってみたい気持ちがあり、ちょっぴり後悔しています。

ただ、吹奏楽部自体はすごく楽しくて、のめり込みました。

楽器を吹くこと、上達すること、合奏すること、全て楽しかったですが、

何より部活の仲間と共に過ごす時間が大好きでした。

この時、仲良しグループの中でも特に気が合い、

四六時中一緒にいる「親友」と呼べる友達ができました。

この親友の存在が、これからの私の人生にとても大きな影響を与えます。

「登校禁止」とされてる期間を除いて、土日も夏休みも冬休みも、毎日通いました。

しかも、電車で1時間かかる学校に門が開く7:15を目指して通学していました。

この時、早朝から毎日欠かさず弁当を作ってくれてた両親。

通学用のシャツに、常に綺麗にアイロンをかけてくれていた母には感謝しかありません。

(h2)高校時代の3つの後悔

高校時代、今思えばこうすればよかった!

と後悔していることが3つあります。

1つは、友人関係。

朝の時間も休み時間もほぼ部活に顔を出していたため、

クラスで仲のいい友人がほとんどできませんでした。

2つ目は、授業態度

中学時代は真面目に、常に緊張感を持って授業を受けていましたが、

高校時代の授業態度は最悪でした。

居眠り、マンガ、ケータイ…ほとんどの時間、真面目に授業を受けていませんでした。

かなり高い授業料を払ってもらっていたのに、両親には申し訳ない気持ちです。

そして純粋に、「もっと真面目に学べばよかった」と今となってはとても後悔しています。

一方で、勉強は嫌いではなく、悪くない成績でした。

中学の国語は苦痛で仕方なかったですが、

高校になり、良くも悪くも一般的な「答えのある問題」が増えて、

私としてはかなり楽になった記憶があります。

テスト期間中は部活もないので、仲のいい部活仲間とファミレスに入り浸り、

何時間も勉強していました。

親友と一緒にいられるだけで楽しくて、勉強も全く苦痛ではなかったのです。

3つ目は、進路。

私の進路の決め方は最悪でした。

内部進学で成績も悪くなかったので、進路は選び放題でした。

でも昔から将来の夢は「結婚して母になること」位しかなく、

これと言ってなりたい職業も勉強したいこともなかった私。

一番偏差値の高い住居系の学科にするか迷いましたが、

「親友が行くから」という超安易な理由で、教育系の学科に決めました。

住居系は父が、教育系は母が仕事にしていたため、どちらでも抵抗はありませんでした。

そもそも、外部受験をするという選択肢もありました。

中学時代の優秀な友人たちの多くは外部受験し、

東大や有名私立、海外の大学等に進学していきました。

中学受験で受験勉強は終わり、

あとは楽することしか考えてこなかった私には全くない選択肢でした。

ただ目の前のことをこなして、敷かれたレールを進んでいた私は

もっと将来のことを真剣に考えればよかった、

大人になり、3人の母になった今、強く思います。

2005年~ 大学時代

親友とともに教育系の学科に進学。

勉強への熱はほとんどなく、楽しみにしていたのは「サークル活動」でした。

中学高校と女子校生活を過ごした私は、

出会いを求めて近所の大学のサークルに見学に行きました。

いわゆるインカレというものです。

小学生のころから大好きだったGLAYの影響もあり、

バンドをやってみたいという気持ちがありました。

親友のほかに、中学時代からの友人2人も一緒に

バンドサークルに入会することになりました。

ここで初めてギターをやることになるのですが、

全くもって上達しません。そしてついに気が付きました。

私は音楽好きだけど、楽器は向いていないということに(笑)

今までやってきたピアノもトロンボーンもギターも、どれもこれも中途半端でした。

このサークルに入ってよかったことは、

まぎれもなく今の夫と出会ったことです。

この話はまた後述しますね。

主体性皆無、超適当な大学生活

学業の話に戻ります。

進学した教育系の学科では、

幼稚園、小学校の教員免許と、保育士資格を取得することができました。

きっと一人で判断していたら、とりあえず全部取ろうとしたことでしょう。

しかし、夢もなければ主体性もない私は、完全に親友に合わせました。

結局、小学校教諭と保育士の資格だけ取れるコースに決めたのです。

ゼミも親友と同じところを希望し、

特に興味があるわけでもない絵本の研究をしました。

無事に小学校の教員免許を取得。

保育士資格を受験できる資格も手に入れたので、

就職してすぐに保育士資格を取得しました。

結局教員にはなりませんでしたが、

教育実習で子どもたちの前で授業をすることはすごくいい経験になりました。

教員免許や保育士資格を取るために学んだことは、子どもを育てる今思い返すと「なるほどな」と思えることも沢山あります。

私の中で「当たり前」だと思っている子どもの発達段階が、

夫にとっては「当たり前じゃない」ことがしばしばあります。

それはきっと少しは大学時代の学びが今に生きているといえるのかもしれません。

大学時代は人生のゴールデンウィーク!

とばかりに学業そっちのけでサークルやバイト、遊ぶことしか考えていなかった大学生活。

でも、いよいよ避けては通れない「就職活動」の時期がやってきます。

将来と向き合うことをしなかった私にやりたいことが見つかるはずもなく、

小学校教員になるか、企業に就職するかで悩みました。

しかし悩んだ結果、

「小学校の先生は大変そうだから」という消去法で企業に就職を選択しました。

2007年~就職活動  仕事へのモチベーションゼロの就活

そして始まった就職活動。

私にはやりたい事もなく、夢と言えば結婚と出産。

就職はそれまでの時間潰し、もしくは出会いの場くらいにしか思っていなかったのです。

(ひどすぎ)

そもそも私にとって、仕事に良いイメージはありませんでした。

そのきっかけとなった出来事があります。

親戚の集まりで、父がこんな会話をしていたのです。

「好きなことを仕事になんてできない」

「できてる人はほんの一握りだし、好きなことを仕事にした時点で好きじゃなくなる」

こんな内容でした。

父はかなり仕事でストレスを抱えていたようで、

日頃から会社の愚痴もよく耳にしていました。

私にとって仕事とは、「きつい、辛い、お金のために仕方なくやるもの」

こんなネガティブなイメージがいつの間にか出来上がっていたのです。

私は仕事に何も期待せず、プライベートを充実させるために、

できるだけ自分の時間を取れそうな職場選びを優先させました。

きっと父が幼い私の心にこんなに響いていたなんて知る由もないです。

 

言葉の力、思い込みって怖いですよね。

仕事に何のモチベーションも感じていなかった私の

企業を選ぶ基準は

「営業じゃない」

「全国転勤ない」

「残業少ない」

「福利厚生充実」

「人間関係よさそう」

ひどいですね。

やる気はないし、

何より自分の事しか考えていない、

とにかく楽をすることが選定基準でした。

そこでたどり着いたのが、金融機関のいわゆる一般職。

知識も興味もないけど、メガバンクと大手生保、損保にエントリー。

その他通信会社やメーカー、製薬会社、消費者金融まで

とりあえず知ってる企業の説明会に行ってみました。

説明会に行っても「面白そうだな」と思える企業には出会えず

何の軸もなく始めた就活でアピールできる志望動機があるはずもなく、

当然のようにお祈りメールの連続。

まさに先の見えないトンネルとはこのことか…!

と、不安すぎる日々を過ごしていました。

電車で乗り合わせた、一見寂れたサラリーマンのおじさんも(失礼)

「かつて就職活動して企業に選ばれたのか」と思うと

自分以外の全員凄い!と、人を羨む日々を送っていました。

ちなみにこの時彼氏もいなくて、

子連れのママを見ては

「好きな人が好きになってくれて子どもまで生まれたのか、

奇跡過ぎて自分にはできる気がしない」

と、同じような感情になっていました。

途中でOB訪問をしたおかげか、

最終的にメガバンク、生保、損保、通信会社の4社で最終面接までたどり着きました。

この中で希望の働き方ができそうだったのはメガバンクか損保会社でした。

2つに絞り、父に相談。

「保険は銀行にいても取り扱える。仕事の選択肢が多い銀行の方が絶対いい」

と言う父の言葉に納得し、銀行を選択しました。

最終面接も無事合格。

晴れてメガバンクに就職することになりました。

就職先への希望というよりは、

やっと就職活動が終わったことへの喜びの方が大きかったです。

就職後に知ったことですが、先輩や同期の多くは学校の推薦枠を使って入社していました。

私は一般枠で6回の面接を経てやっと内定まで辿りついたけど、実は母校にも推薦枠があったらしい!

面倒臭がってちゃんと調べないと、こういうことになるんですよね。

ゼミの教授に内定の報告をした際、強く印象に残った言葉があります。

それは、「入社するんだったら頭取までなりなさい」という言葉。

とにかく楽をしてゆるーく働く気満々だった私には衝撃でした。

でも、最初から「できるわけない」と言われるよりなんだか気持ちがよくて。

初めて仕事に前向きな気持ちになれた言葉だったように思います。

今でもたまに思い出しては気が引き締まります。

2009年 就職 金融知識ゼロで銀行に就職した話

私は「振込」と「入金」の違いも分からない位、ガチで金融知識(と言うかもはや一般常識)ゼロの状態で就職しました。

資格取得の歴史

2つ上のOJTの先輩は、入行3年目で既にFP1級を取得している優秀な方でした。

「ただでさえ忙しいのに1年生を教える暇などない」

そんな雰囲気が全身に醸し出されていて、常に話しかけづらい緊張感が漂っていました。

やることのない私は先輩の隣でひたすらお札を数える練習をしていました。

銀行に入るとまず「現金その場限り」の基本を叩き込まれ、

「札勘(さつかん)」の練習を徹底的にさせられます。

「札勘」は新人が必ず受ける初めての試験です。

支店長の前でランダムに配られるお金を数え、

制限時間内に数個の100万円の束を作り、帯封をするというもの。

何とか試験には受かったものの、札勘は今でも超苦手です。

また、新入行員は何か1つ通信教育を受ける必要がありました。

一覧の中から、先輩に言われるがままFP3級を選択。

FPの勉強内容は何もかもが今までの人生で触れたことのない内容でしたが、

3か月くらいの通信教育のおかげでスムーズに合格することができました。

その後、「生保」「損保」「証券外務員」などの資格を立て続けに受験します。

これらの資格は、実際に商品を販売するときに必要な資格です。

例えば証券外務員を持っていないと投資信託を販売することはできません。

それぞれの販売員になりたい人は取るべき資格です。

先輩やスタッフさんは「大変だね」「嫌だよね」と労いの声をかけてくれましたが、

私にとって資格の勉強自体は全く苦ではなかったのです。

それよりも、受験のために業務を抜けて試験会場に行けることに喜びを感じていました。

FP3級取得から2.3年後、FP2級を受けてみることにしました。

窓口で資産運用の相談業務をやるようになり、単純に興味が沸いたためです。

1回目の受験は学科に合格するも実技は落ちました。

2回目の受験は満点を取って合格しました。

FPの資格を勉強したことで、家計管理のアドバイスができることはもちろん、自分自身の家計管理にもかなり役立ちました。

どの項目もそうですが、「知らないと損」するお金の知識を身に着けられる資格です。

その知識は一生もの。家族の中で1人でも学んでいるととっても心強いと思います。

その後、結婚してすぐの時期にFP1級の勉強を開始します。

マイホームが欲しいという思いもあったため、

家計管理や不動産の勉強になるなら、と挑戦。

合格すれば会社から10万円もらえるという下心もありました。

しかし、想像以上のボリュームに挫折。

1回目は妊娠前、2回目は1人目出産間近に再挑戦しますが

全く手ごたえがありませんでした。

それから7年ほど経った今、FP1級はぜひ再挑戦してみたい資格でもあります。

次に資格を取得したのは、簿記3級。2人目の育休中です。

資格を取ろうとした理由は、自分のレベルアップのためです。

ネットでテキストと問題集を購入し、育児の合間を縫って勉強しました。

コロナ禍と育児ストレスで限界だった時期、勉強時間は私にとっていい気分転換でした。

簿記の勉強は私の性に合っていたようで、ドはまり。

ノリに乗って簿記2級の勉強を開始しました。

勉強開始からほどなくして職場復帰すると、

都合のいいことに社内のeラーニングでTACの講義を受けることができました。

仕事中のスキマ時間や家事をしながらにこれを見て勉強

座って集中して勉強できるときはネットで買ったテキストと問題集でひたすら勉強していました。

また都合のいいことに、3人目の妊娠が発覚。

コロナ禍で感染拡大がピークの時期で、会社の配慮で早期に自宅待機という名の産休へ。

思いがけない一人時間をいただき、ラストスパートをかけました。

ドはまりした甲斐もあり、2問ミスで合格することができました。

大好きな簿記ですが、実際使う場面に遭遇できていないのが現状です。

株取引の企業分析にも使えるので、忘れないうちに活用していきたいです。

また、事業をしている人やその家族にもおすすめしたい資格です。

現在は、アフィリエイトの案件で出会った資産運用検定の資格を取るべく勉強中です。

内容は難しくなく、投資を始めたいor始めたての初心者はもちろん、既に始めている人にも一度学んでみてほしい内容です。きっと新しい発見がある、もしくは自分の考えに自信が持てるようになると思います。

「投資をしたいけど何からすればいいかわかりません」という方には「とりあえずこれやって!」とお渡ししたいテキストです。

次受けるならFP1級か宅建に挑戦してみたいものです。

「早く帰ろう」ではなく「早くPC消そう」

職場の話に戻ります。

今でこそ勤務管理にはかなり厳しくなり、サービス残業もほぼなくなっていますが、

当時はサービス残業が当たり前でした。

定時は8時40分~17時10分ですが、

若い行員は8時前にフロアに降りて、

新人は雑巾で机を拭き、指を湿らせるスポンジに水を入れ、

他の行員は前日に遺した作業をしたり、各々の業務を開始していました。

ですがこの時、PCはまだ開きません。

PCを開いてログインするのは8時40分以降と決められていました。

もうお分かりですね、それより前はサービス残業です。

今では「着替え時間も業務時間」とされ、

働いた時間+αで残業を付けるように言われるほど徹底されてます。

ここからはあくまでも当時の状況です。

当時は「準備の時間は業務時間外」と言われていました。

そして17時10分以降もある程度のところでPCを切り、

1時間以上サービス残業を続けることが習慣化されていました。

初めての上司は、当時は少なかった女性課長でした。

若くて一生懸命で、頑張り屋さんだったんだろうと思います。

人柄には好感が持てて私は好きだったのですが、仕事面ではモヤモヤする事も。

定時過ぎてからの長く無意味な会議からの、

「ちょっとこれやっといて」

(特に監査部門の検査が入る前の書類チェック)

そして月1の勤務時間の締め作業で呼び出され、

勤務管理表の残業時間を指差し

「〇〇さん、大丈夫?気をつけて。」

(※訳:PC切るの遅くない?気をつけて。)とやんわり注意喚起。

「サービス残業をするのが当たり前」「当然PC切ってからやるよね?」という雰囲気、支店全体に染み付いていました。

疑問を感じつつも「社会人ってそんなものなのかな」と一旦は受け入れました。

でも、他の就職先の友人に話を聞くとどうやら違うようです。

この状態が1年以上続き、自分だけ残業を付けるなんてもちろんできず、

モヤモヤする日々が過ぎていきました。

「私に銀行は無理」と思った瞬間

私の所属した支店は住宅街にあり、かなり来店客数の多い支店でした。

私の所属先はいわゆる銀行のフロント業務です。

入社時は窓口に来るお客様対応やその後方事務を担当していました。

2009年の入行当時は今ほどネットバンキングも浸透しておらず、

簡単な税金の支払いや振込も店頭に来るお客さんがとにかく多い時代でした。

税金の受け入れ一つとっても

「有効期限」や「受け入れられる自治体か」「手数料の有無」「記入漏れはないか」「訂正印は貰っているか」「電話番号はあるか」

など、確認する項目だらけ。

本人確認が必要な取引でコピーを取り忘れたらそれはもう大変。

もちろん1円でも現金が合わないと大騒ぎ。

見つかるまで本当に何時間でもゴミ箱の中まで探します。

ここには書けない、それはもう色んなことが発生しました。

毎朝出勤する時に「今日は何事も起こりませんように」と祈る毎日。

正直こんな毎日やってられません。

銀行だから当然ですが、全て正確にこなすのが当たり前で、間違えたら大惨事です。

ハイテラー業務は私にとってストレスの宝庫でした。

振込や税金を大量に受け付けて、時には本人確認ができないとお断りをし、

早くしろと言わんばかりのお客さんの目に耐えながらミスなく迅速に対応する。

1つ印鑑をもらい忘れようものなら、お客様への謝罪とお局様からのお説教。

家に帰って寝るまで、頭の中にお局様の声が鳴り響いていました。

そもそもズボラで答案用紙の見直しをするのも嫌いな私には、

この細かいルールと張り詰めた空気が本当に無理過ぎました。

そういえばこの時期、全身に謎の発疹が出て荒れ放題。

1年くらい生理が止まっていました。

今考えてもこの時には戻りたくありません。

2011年 配置転換と意外な発見

入社2年目の終わり頃に、配置転換がありました。

単純な振込や税金などを受付するハイテラー業務から、

口座開設や相続などの手続きを受付するローテラー業務に係替えとなったのです。

各種手続きを受けつつセールスするのが目的です。

クレカ、カードローン、外貨預金、国債、保険、投資信託など、様々な金融商品を提案します。

最初は「窓口で口座開設だけ受ければOK」と言う話で係替えをしたのに、

気づいたら営業の研修を受けさせられます。

そしていつの間にかノルマが発生し、金融商品の勉強会が始まり、営業ロープレをし、営業電話をかけ…

あれ?私こんなことするために入社したんだっけ??

営業=押し売りのイメージしかなかったので、

「やりたくない」と言う気持ちしかありませんでした。

でも、実際金融商品を学び始めると結構面白くて。

ここで初めて、保険、投資信託、債券などの金融商品や

税金の知識を習得することになります。

(そもそもFPや証券外務員の資格で学んでるはずだけど、ほぼ落とし込めてなかった)

また、私が好きだった業務の一つが相続手続きです。

戸籍謄本を見て相続人を確認し、本人確認をして解約の手続きをします。

預金以外の金融商品を持っていたり、遺言書があったり、相続人になるべき人が亡くなっていたり…

手間も時間もかかり割と嫌われる業務なのですが、

複雑になればなるほどやりがいを感じ、面白いと思う自分がいました。

お客さんの話を聞いて1人1人に合った提案をしたり、

分からない手続きはその場で確認しながら1つ1つ進めたり。

そんなローテラーの業務が私には合っていたようです。

2011年 営業を始めた当時の相場環境

2024年3月現在の日経平均はバブル後最高値を更新し、40,000円台が見えています。

ドル円は1ドル150円。

新NISA制度も始まり、テレビやSNSでは「銀行に貯金だけはヤバい」「投資をしないと損」そんな風潮にありますよね。

しかし、

私が営業を始めた2011年頃は真逆の状況でした。

まだまだリーマンショックから回復しきれていない時代。

さらに東日本大震災もあり、1万円台だった日経平均はあれよあれよと言う間に下落し8,000円台に。為替は1ドル75円をつけていました。

今となっては日経平均は当時の5倍近く。

ドルの価値は2倍。

あの時投資していればどんなに資産が増えていたか…

今ならそう思えますが、当時は先の見えない不安に誰もが苛まれていました。

銀行に来るお客さんは特に「安心安全」がお好き。

基本的に「リスク」は嫌いです。

当時はタンス預金ブーム。

「銀行さえも信用できない」と、一気に何千万もの現金を引き出そうとするお客さんもいました。

災害が起きたら怖いからと、貸金庫に現金を入れておく人も。

リーマンショックで痛い目を見た人もそうでない人も、

「元本保証のもの以外はやりません」と口をそろえて言っていました。

実際にその時投資信託を保有しているお客さんの資産はほぼほぼマイナス。

しかも20〜30%の元本割れは当たり前でした。

今なら言えます、「今がチャンス」「コツコツ積立していきましょう」と。

でも、その時の私にはそれが言えるほどの知識も経験もなかったのです。

営業を始めたばかりの若かりし私にお客さんは教えてくれました。

「投資なんてするもんじゃないよ」と。

そこで言い返せるほどの知識も身につけておらず、

実際のお客さんの損失を目の当たりにしたことも相まって、

「投資なんてするもんじゃない」と私も本気で思っていました。

そんな状態で窓口営業してるなんてヤバくない?

と思われるかもしれません。ごもっともです。

私もそんな銀行員に相談なんてしたくありません。

当時のお客様には本当に申し訳ないです。

もちろん、営業の成績なんてほぼありません。

だって、投資信託をおすすめと思えなかったから。

自ら買いにくるお客様への対応と、クレカや保険の提案ばかりしていました。

貯蓄型保険の闇

金融商品を学び始めたばかりの時、私が感動した商品があります。

それは、「貯蓄型保険」です。

ちょっと知識のある方なら、「どういうこと?」と思われるかもしれません。

当時、「元本割れしないこと」が大事だったお客様にとって、

貯蓄型保険はとても提案しやすい商品でした。

なぜなら、「一定期間置いておけば預金の何十倍も増えるから」。

今でも覚えています。貯蓄型保険の商品を教えてくれた先輩に

「え?なんで増えるんですか?凄くないですか?」と言ったことを。

元本割れしないことが正義だと思っていた私にとって、

元本割れもせずに普通預金より金利がいいなんて夢のような商品に感じ、

お客様にも全力でおすすめしていました。

当時銀行窓口で流行っていた商品は円建ての「一時払い終身保険」

1000万円を10年間預けると約1100万円になる。というものでした。

当時の普通預金金利は0.02%。10年間預けても利息は2万円にしかなりません。

ちなみに現在は0.001%(笑)

今よりはよかったものの、既に「低金利」と言われる時代でした。

うろ覚えですが、5年位で元本が回復、

10年経過してやっと110%になるというものだったと思います。

退職金を受取った人が利回りのいい退職金定期預金を作り、

満期が来たらこの保険を契約する。こんな流れができていました。

同じ理由で、店頭に子どもの口座開設に来るお客様に学資保険もよく販売していました。

私はそこまで営業成績にこだわらず、

自分が本当にいいと思ったものしか売っていませんでした。

というか、いいと思わないものには気持ちが入らず売れなかった、

とも言えます。

その時の私にとってベストだと思った

「円建ての貯蓄型保険」をひたすら販売していたのです。

時が経ち、金融緩和が進み国内の金利が更に下がってくると、

保険の利回りも低下。円建ての保険は条件がどんどん悪くなっていきました。

そこで主流になったのが「外貨建て保険」です。

最初に流行ったのは日本よりもアメリカよりも高金利だった「豪ドル建て」の保険でした。

その後アメリカの利回りも上がり、「米ドル建て」の保険が主流になります。

ここからはちょっと保険の仕組みをお話しします。

そもそも貯蓄型保険の運用の中身は「債券」です。

自分で証券会社で債券を買うと、手数料はほぼ0のようなもの。

でも、保険で運用しようとすると、びっくりするくらい高額な手数料が取られています。

お客さんが支払った保険料は、「①保険金の支払いに充てる純保険料」と「②生命保険会社の運営に使う付加保険料」に分かれます。

そのうち、②の部分の割合はほとんどの場合公表されていません。

つまり、お客さんは保険会社にいくらの手数料を払ってるかも知らず、契約するのです。

知らないところで取られている手数料は、保険販売員の利益にもなります。

銀行の窓口で販売すれば、銀行の利益です。

保険商品を売る側にとって「外貨建て保険」は最高の商品です。

投資信託ではどんなに高くても3%台(今はほぼゼロですが当時はそんな投資信託もザラに売れてました)。

それに対し、外貨建て保険は6~8%の手数料をもらえました。

だから保険販売員は外貨建て保険を売りたいのです。

今ならはっきり言えます。

お金を増やすことが目的なら、「保険」で運用するのは間違っています。

保険は万が一の保障として最低限の金額で準備し、

投資は自分で投資信託などを運用するのが最適解です。

でも、

当時の私にはそこまで理解していなかったんです。

投資は10年後いくらになるかなんてわからないけど、

保険なら10年後の金額は外貨建てで保障されてる。

受取時にドルが安かったらドルで受け取ればいいし、保険の方が安心じゃない?

と単純に考え、もちろんお客さんにも販売していました。

あの時買ってくれたお客さんはどうしてるかな。

きっと増えてる人が多いはず。

でも、自分で運用してたらもっと増えてたよね。

こんな販売員ばかりじゃない(ことを祈ってます)けど、

こんな人もいるので注意してくださいね。

人気商品の闇

基本的に、銀行の人気商品には注意が必要です。

前述した保険もしかり、投資信託もしかりです。

SBI証券や楽天証券の人気ランキングと

メガバンクの人気ランキングを比較してみてください。

SBI証券や楽天証券の人気ランキングを見ると、

購入時手数料は無料、信託報酬も0.2%以下と、最安に近い商品が上位を占めています。

銀行の投資信託の人気ランキングの上位は違います。

購入時手数料3.3% 

信託報酬1.7%

こんな商品がザラにあるのです。

ある程度知識がある人が見ると、信じられないと思います。

100万円購入した瞬間に33,000円マイナスになり、毎年17,000円引かれていくのです。

(あくまでもざっくりとした計算です。)

つまり、買った年に5%上昇してもやっとプラマイゼロ。

どう思いますか?

もちろん手数料が高くてもいい商品はあるし、手数料が安い商品もランキングに入っています。

でも、上位に食い込んでいる手数料の高い商品の多くは

「銀行員が売りたい商品」であることを覚えていてほしいです。

書きだしたらきりがないのですが、お金の知識を学べば学ぶほど

銀行でセールスすることへの疑問と抵抗を感じてしまう自分がいます。

銀行への感謝と私が銀行を辞めたい理由

ちょっと悪口を書きすぎてしまいましたが、私自身銀行には本当に感謝しています。

私に金融知識を学ぶ環境を与えてくれたこと、

3人の妊娠出産も快く受け入れ、お金の心配をすることなく過ごさせてもらったこと、

コロナ禍の妊娠中には、感染リスクを考慮して自宅待機させてくれたこと、

子育てと仕事の両立を共に頑張る先輩や後輩に出会えたこと、

つらい日々を一緒に乗り越えた、励ましあえる先輩に出会えたこと、

本当に信頼できる上司に出会えたこと、

挙げ始めるとキリがありません。

銀行の業務は私にとってストレスしかないものでしたが、

出会う人は皆本当に優秀で、人間性も素晴らしい人ばかりでした。

人間関係

(h3)人間関係

私の人生を振り返ると、人間関係にはかなり恵まれてきました。

思い返しても「あいつだけは許せない」みたいな登場人物は1人もいません(笑)

その時その時で嫌だなと思うことはあるけれど、基本的に人に恵まれて生きて来れたのはこんな考えがあったからかもしれません。

「この世に本当の意味で悪い人はいない」

というもの。

どんなに嫌だと思う相手でも、その人にはその人の良さがあって。

本当の意味での悪い人間はいない、そんな考え方です。

これは、昔GLAYのTAKUROのインタビュー記事か何かで読み、無性に納得した考え方だったんです。(言い回しは違うかもしれません。私の解釈です。)

この考え方をするようになってから、「ちょっと嫌な感じだな」と思っても、別角度から見れるようになったんです。

そしたら、人間関係はかなり楽になりました。

そして、常に大好きな人が近くにいる環境が出来上がりました。

好きだけど無理だろうなと思ってた人に告白されたり、

常にどのコミュニティでも「最高のメンバーだよね」と言える仲間に出会えたり。

本当に不思議です。

2014年結婚

出会いはサークル時代に遡ります。

サークルの同期として4年間一緒に過ごしたものの、お互いにそれぞれ彼氏彼女を作り、意識し始めたのは卒業後。

社会人2年目に付き合い始めました。

そして4年間付き合った末結婚。

10年経って結婚して良かったと思うことは、

金銭感覚が合うこと

趣味が(大体)同じこと

子どもへの想いが(大体)同じこと

なんだかんだ私の希望を優先させてくれること

私の暴走を牽制してくれること

迷いがちな私を引っ張ってくれること

家事をするのが当たり前だと思ってること

いい意味で真面目でいい意味で適当なとこ

そんなところでしょうか。

毎日のように腹が立つこともあるけど、

なんだかんだで他の相手はいないと思っています。

先述した通り、私が唯一叶えたかった夢は結婚と出産。

相手もいない頃から、「結婚資金」として財形貯蓄で150万円ほど積み立てていました。

いよいよ出番とばかりに全て下ろし、1週間の新婚旅行で気持ちよく使い切りました。

新婚旅行で行ったタヒチのボラボラ島が素敵すぎて、

家族を連れてもう一度行きたいという気持ちが、今の私の原動力になっています。

2016年 長女の妊娠・出産

2016年 初めての妊娠でやったこと

結婚式の1年後、結婚式をしたホテルに泊まる予定を立てていました。

その日の午前中、向かった先は産婦人科。

ちょうどお腹に赤ちゃんがいると確認できた日でした。

待ちに待った赤ちゃんがお腹に来てくれて、心から嬉しい気持ちでホテルのディナーへ。

しかしその時すでに悪阻は始まっていて、

高いレストランの食事を美味しく感じられなかった残念な記憶があります。

翌日の楽しみにしていた朝食バイキングも、

店の前で並んでいる時に貧血で倒れ、車いすで運ばれるハプニングも。

早速たまごクラブを購入し、食べちゃいけないものなどを確認。

何もかも初めてのことで、会社への報告時期や手続きなどとにかく調べまくりました。

妊娠が確認できてから、悪阻の症状はひどくなっていきました。

ここで私が妊娠報告をしたタイミングをご紹介します。

お互いの両親には5w。

胎嚢が確認できた時点で即報告しました。

両家にとっての初孫。

報告を聞いてどちらの両親もそれはそれは喜んでくれました。

会社の直属の上司には、7w。

心拍が確認できた時点で報告しました。

披露宴にも参加してくれていた上司だったため

「そろそろかと思ってたよ」と快く受け入れてくれたことが嬉しかったです。

会社の同僚には、安定期に入ってから報告しました。

しかし、仲の良かった先輩は後から聞くと薄々気付いて気を遣ってくれていたことが判明。

もっと早く報告すればよかったと後悔しています。 

わが家の地域の産婦人科は人気があり即埋まると言われていたので、

心拍が確認できる前に出産の予約もしました。

いつも自転車で駅まで行っていましたが、

「自転車の振動が赤ちゃんの負担になるかも」という記事を見て、自転車を封印しました。

(2人目、3人目では出産前日まで乗ってたけどね)

悪阻中の仕事事情

悪阻中は休んだり入院するほどの重症ではないけど、常に船酔いしてる感覚で常にしんどかったです。白ご飯が炊けるにおいもダメ。

何を口にすれば良くなるのか、毎日変わるので訳がわかりませんでした。

仕事中一番ひどかったときは、忘れもしません。

カードローンの契約に来てくれたお客さんの接客中、

どうしても我慢できなくなり「少々お待ちください」とお待たせしてダッシュでトイレへ。

お腹のものを出してから平然と窓口に戻って接客を続けた記憶があります。

就活以来の「先の見えない長いトンネル」は、安定期に入ってやっと抜け出すことができました。

2016年 待ちに待った産休

待ちに待った産休へ。

それまで憧れていた「産休中にやりたいこと」をとことんやりました。

マタニティヨガに通う、赤ちゃんのために編み物をする、見たかった映画を見る、ひたすらゴロゴロする、近所を散歩する、普段会えない友達に会う、

仕事終わりの母がうちに来て、買ってきてくれたおやつを一緒に食べる。

1人目の産休は、大学生以来の自分だけの自由な時間。

本当に優雅で貴重な時間でした。

両実家が集まり盛大な出産

出産予定日から1週間以上経っても出てくる気配のないわが子。

安産祈願にと鎌倉の鶴岡八幡宮にお参りに行った翌日、ついに生まれてきました。

第一子の出産児はコロナもなく、陣痛室へのお見舞いの人数に制限がなかった時代。

もうすぐ生まれると聞き、両親はもちろん、義母も陣痛室まで駆けつけてくれました。

信じられないほどの痛みと苦しさで悶えまくった姿を見せることになったけど、

辛すぎて「そんなのどうでもいいや」状態でした。

破水から始まり、陣痛が10分間隔になってから10時間かけ出産。

「安産ですよ」と言われても、悶え苦しみ、やっとの思いで出産し満身創痍の私にとって

「え、どこが?」という感じ。

生まれたての新生児を横目に産後の処置。

やっと赤ちゃんに出会えて嬉しい気持ちと、

「産後もこんなに痛いなんて聞いてないよぉ」という気持ち。

赤ちゃんを胸の上に寝かせるカンガルーケアを2時間した後病室に戻ると、

両親と義両親、そして義兄も赤ちゃんの姿を見に来てくれていました。

金曜の夜の仕事後にこんなにも集まってくれたことに愛を感じ、感謝の気持ちでいっぱいでした。

初めての育児に奮闘!1人目の育休

初めての育児は想定外ばかり。

まず、母乳問題がこんなに大変なものだとは思っていませんでした。

母乳が出ないことに悩んでいたかと思えば、出すぎて詰まり、痛みに苦しんだり。

最初に辛くて泣いたのは母乳のコントロールでした。

新生児との生活は、想像以上に大変。

なぜ泣くのかわからず一日に10回以上母乳を吸わせてみたり、

赤ちゃんが泣き止むという反町隆史の「POISON」をひたすら流してみたり。

疲弊することもあったけど、

日々成長し、変化していく娘がただただ可愛くて幸せな日々でした。

生後5カ月でキャンプデビュー。

生後6ヶ月で車で6時間かけて祖母の家に行き、

生後8ヶ月で飛行機デビューし、沖縄に行ってみたり。

とにかく色んな場所に行きました。

母乳問題も落ち着き、生後5ヶ月になった頃、

近所の子育て支援センターに出かけてみました。

何度か通ってるうちに顔見知りになったママと仲良くなり、

毎日のように自転車をどこまでも走らせ、子育て支援センターや子育てイベントをめぐっていました。

1人目で兄弟もいないので、いろんな人と関わって、沢山のことを体験させたいという想いがありました。

子どもにとっていい影響があったのかどうかはいまいちわからないけど、

ほぼ同じ月齢のママたちと悩みの共有や情報交換ができたことは私にとってとてもありがたかったです。

もちろん、こんな幸せな日々は期限付き。

いよいよ復帰に向けて保育園入園の準備が始まりました。

お金の勉強にハマった話

1人目の育休中はひたすら子育てにコミットしていました。

でもどこかで「子どもたちが巣立った後の私は何になるんだろう?」

「やりたくもない銀行員を文句言いながら続けていくの?」という思いがありました。

そのため転職サイトに登録してみたりもしたけど、

育休復帰後に時短で働きたい私にいい条件の転職先などあるはずもありません。

かと言って自分で稼げるようになるなんて考えられない。

でも何かいい方法はないかな?

そんなことを考えていた時、インスタでポイ活に出会いました。

初めてポイ活というものの存在を知った時は感動しました。

こんな簡単に稼げるなんて…。

少ない育休手当をもらいながら、

友達とランチしては出費する日々に罪悪感を感じていたため、

ほぼノーリスクでランチ代を稼げるだけでも超画期的でした。

そしてインスタでポイ活のアカウントばかり見ていたら、家計管理のアカウントに出会いました。

そこから投資系等もフォローし、お金周りの情報を取りに行くようになりました。

思った以上に深刻。保育園問題

私の住む地域は少子化とは思えない、子どもがとにかく多い保育園の激戦区。

認可、認定、無認可と、ありとあらゆる保育園の見学に行きました。

最終的に第一希望にした保育園は一番自宅に近い保育園。

第二希望以降も自宅から駅の間にあり、園庭のある比較的広い保育園から順番に用紙に書けるだけ書いて提出しました。

結果、1歳児での申込は全滅。

保育園には入れませんでした。

その旨を支店長に連絡すると、「いいよいいよ、来年まで待つよ」との軽い返答。

ん?いいの?と思いつつ、その言葉を信じて育休を継続しました。

会社から衝撃の電話

娘が2歳になる2ヶ月前、突然会社から電話がかかってきました。

「2歳の誕生日までに戻らないと、退職になるかも」「保育園入れられそう?」という内容をやんわりと伝えられました。

安心して休んでいた矢先の電話に衝撃を受けました。

そこから必死に今すぐ入れる保育園を探しました。

たまたま見つけたのが、隣駅にある夫の会社の事業内保育所でした。

ラッキーとしか言いようがありません。

2歳になる月にギリギリ入園させてもらい、2歳の誕生日前日に育休復帰しました。

その時は大慌てで大変だったけど、

認可保育園が全滅だったおかげで2歳の誕生日ギリギリまで娘と一緒に過ごせたのはありがたい誤算でした。

続・保育園問題

娘の保育園問題はこれでは終わりませんでした。

復帰直後に第二子の妊娠が発覚。

妊婦で隣駅まで自転車を飛ばして送迎するのはかなりの負担でした。

やはり近くの保育園に入れたい。

でも2歳児の空き枠はかなり少ないのが現実。

そこで認可保育園に落ちた場合のために、近所の認定保育園にも入園希望を出すことにしました。

その認定保育園の入園受付は電話での先着順。

親戚を巻き込み、電話の前で待機して募集開始とともにかけまくりました。

結果、無事入園申込をすることができたのです。

ただし、条件があります。

入園料15万円は、キャンセルしても返ってこないということ。

認可保育園の結果が出るのはまだ先の話でした。

15万円を支払った後、無事(?)に認可保育園に落ちたこともわかり、認定保育園の入園準備をしようとしていた頃でした。

役所から、認可保育園に空きが出た旨の連絡が来たのです。

そして15万円を捨て、認可保育園に入園することになりました。

認可保育園ってこんなに厳しいの?

晴れて4月から認可保育園の2歳児クラスに入園することになりました。

それまでの1クラス5名程度の小規模な保育園とは異なり、新たな園は1クラス20人超。

元々人見知りの娘が馴染めるかとても心配でした。

案の定なかなか自分を出せない娘。

給食もあまり食べられていなかったようで、夫が迎えに行った時に「ちょっとこのままでは園生活厳しいですね〜」と言われたとのこと。

後々とてもお世話になった良い先生なので、もしかしたら夫の聞き間違いか捉え方が違っただけかもしれません。

でもその時は、「そんな言い方するんだ!?」と不信感を持ってしまいました。

休みにも厳しく、どちらか一方が休みになれば子どもは休まなければいけません。

また、お迎えの前に買い物に寄るのも禁止。

直接迎えに来てくださいとの厳しいルール。

それまで通っていた保育園は親の都合に合わせて柔軟に預かってくれていたこともあり、ルールの厳しさにモヤモヤを感じていました。

この辺りの柔軟性は、同じ認可保育園でも園によって全然違うので、これから保育園探しをする人は事前に確認してみるのがおすすめです。

2人目妊娠の報告と、産休に向けて

職場には大変申し訳ないことに、

復帰から1週間後、妊娠が発覚しました。

病院に行って心拍が確認できたら報告しようと決め、復帰から約3週間後に上司に報告しました。

当時の上司は今でもご飯に誘ってくれる過去1優しい上司でした。

その時の反応も「そっかそっか、上の子が2歳だもんね、想定内だから大丈夫だよ。おめでとう」

と本当に心からお祝いの言葉をかけてくれたことにとても嬉しかった記憶があります。

復帰後、営業をするか事務をするか、仕事内容で迷っていた私でしたが、「負担が少ない方がいい」という上司の判断で後方事務を担当させてもらうことになりました。

早めに報告したことでお互いに負担の少ないポジションを与えてもらい、ストレスフリーの半年間でした。

もちろん、キャリア面から見たら全く成長の見込めないポジションだったかもしれません。

でも、初めての仕事と子育て、そして妊娠との両立となる私にとっては本当にありがたい気配りでした。

半年後に産休を控えているということは、ここで時短を取っているとさらに育休手当が減ってしまいます。

ということで時短を解除し、フルタイムに切り替えました。

朝と夕方のバタバタはキツかったけど、職場環境が良かったお陰で、初めて会社に来ることが楽しいと思えた期間でした。

2019年2回目の産休・育休

あっという間に2回目の産休に入りました。

当時2歳の娘はお腹の赤ちゃんに「かめあとん」という謎の名前を付け、「かめあとん生まれてくるの〜?」と赤ちゃんを意識した発言をしていました。

2人目が産まれる直前まで、上の子が可愛くてたまらない気持ちになっていました。

まさかの長期入院

2人目を予定日より2週間早く出産。

声の大きい元気な男の子でした。

2人目だし少し勝手もわかり、気持ちに余裕がありました。

しかし、出産は本当に何があるか分かりません。

入院中、いつも通り赤ちゃんの検診にきた先生が、息子を見て「ちょっと顔色が悪いから預かるね」と慌ただしく連れて行きました。

後から考えてみれば顔色が紫っぽく、あまり母乳を求めずに寝続けていました。

実際写真で見ても紫色の顔をしていました。

息子はそのまま保育器へ。

どうやらうまく呼吸ができておらず、かなり酸素濃度が下がっていたようです。

病名は「新生児呼吸障害」

先生は「赤ちゃんにはよくあることだよ」と言ってくれたので、そんなに心配はしていませんでした。

色んな検査をするも異常はなく、ちょっと呼吸がうまくできていないだけ、とのこと。

ですが、一緒に退院できるかと思いきやなかなか正常値にならず、10日ほど入院してやっと退院できました。

あの時診察に来た先生が気付いてくれたから助かったものの、気付かずに放置していたら…と思うとゾッとします。

一緒に退院できなかったことは残念だったけど、

完全に良くなるまで念入りに診てもらえたこと、上の子と過ごす時間を増やせたことはありがたいことでした。

長女と長男のカオスなワンオペ生活

近所に両親が住んでいたため、里帰りはしていませんでした。

新生児特有の訳もわからず泣く長男と、突然弟が登場して精神不安定な長女。

2人の泣き声が部屋中に響いていました。

「あぁ、これぞカオス」という状況。

絶望に打ちひしがれていました。

でも午後には母が助けに来てくれる、それまでの辛抱だったので頑張れました。

これが毎日1日中続いていたら、気が狂っていたことでしょう。

世の中のワンオペママさん、本当にお疲れ様です。

2020年コロナ禍の育児

長男が生まれて半年経ち、そろそろ子育て支援センターに行ってみようかな?

と思い始めた頃、前代未聞のパンデミック、コロナが発生しました。

この時の日本は異常でしたね。

何が正解かもわからないから、本当に不安でした。

娘を保育園に行かせるのも怖くなっていた頃、

保育園からも「育休中の方はできれば自宅待機してほしい」とのお知らせがきました。

私自身も保育園に行かせることに抵抗を感じていたので、娘を休ませることにしました。

この時は公園の遊具でさえ閉鎖される異常事態。

外に出て遊ぶことさえ悪いことをしているような雰囲気でした。

それでも狭い家の中に居続けるのは大人も子どもも限界!

なるべく知り合いに会わなそうな人気の少ない公園に連れて行き、発散させていました。

さて、ようやくハイハイやつかまり立ちを始め、動き出した長男と、

赤ちゃん返り中の長女。

カオスな日々の始まりでした。

コロナ禍で悪化。上の子可愛いと思えない症候群

人生で初めての緊急事態宣言。

少し咳をするだけで「まさかコロナじゃ…?」と疑ってしまう、そんな時期でした。

実家は近いけど高リスクな父親に移るのは大変。と、なるべく実家にも近寄らないようにしていました。

完全なるワンオペです。

救いだったのは、長女の誕生日に義実家からもらったトランポリンの存在。

このお陰で家に引き篭もりながらも子どもたちを発散させることができました。

もちろんそれだけで済むはずもなく。

娘が一生懸命作ったブロックに、0歳息子が突っ込み破壊

→娘激怒

→弟を倒す

→私激怒

こんな日常が繰り返されていました。

ただでさえ、突然の弟誕生のストレスで赤ちゃん返りしていた娘。

コロナの引きこもり生活の影響もあってかなり溜まっていたのだろうと思います。

そこを優しく受け入れてあげられればよかった。

でも、私にはできませんでした。

私は溜まったストレスを子どもに向けてしまっていました。

小さい娘にひどいことも言ったし、手を出してしまったことも。

「下の子が生まれたらまず上の子優先」と

様々な育児情報で言われていたので、めちゃくちゃ意識してたのに…

やろうと思ってもどうしても娘のことを可愛いと思えない状態に陥っていました。

娘は覚えてるかな?今考えても涙が出ます。

育休中の家庭に対する園の対応に…

たしかに保育園からもらってきたら怖いし、私の意思で休ませていました。

「でも家で2人見るの、もう限界だよ。いつまで休めばいいの??」

そう思い始めた頃、保育園のクラスの先生から電話がかかってきました。

内容は、「協力してくれてありがとう」「娘ちゃんもママも大丈夫?」「大変でしたよね」というもの。

思いがけない優しい言葉に、メンタル弱弱だった私は泣きそうになっていました。

そして、これから少しずつ保育園に来てみては?

との提案でした。

ありがたく保育園に行かせてもらうことになります。

とはいえ、毎日お休みの生活に慣れていた娘にとって保育園に行くのはストレスでしかありませんでした。

毎回保育園に送っては嫌がって私から離れない娘。そりゃそうだよね。

保育園で預かってくれるのは毎日ではありませんでした。

「週2.3回にして、早めにお迎えに来てほしい」とのこと。

ちょっと慣れたと思ったらまた休み、の繰り返しで、なかなか娘は保育園に馴染めませんでした。

そして、また緊急事態宣言が出るたびに娘は長期休みに。

先生方にも家庭はあるし、育休中なら家で子どもを見ることはできなくない。

たしかにそうだけど、ちょっと扱いがひどくない?

そんな疑問も浮かび上がってきました。

他の子と同じように月数万円の保育料を払い続けていました。

でも、その保育料は1円も返ってきていません。

他の育休中のママも同じようにモヤモヤを抱えており、市役所に問い合わせてくれました。

回答は「園の判断」とのこと。

結局、過去の保育料を遡って返金してもらえることはありませんでした。

コロナ禍での収穫

コロナ禍は悪いことばかりではありませんでした。

外に出られない雨の日はクッキー作りやパン、ピザ作りなどで時間を潰していました。

コロナがなければ面倒くさがりな私はきっとこんなことやらなかったでしょう。

何度目かの緊急事態宣言の際は毎日公園に行き、

娘は自転車に乗れるようになりました。

公園の雲梯もできるようになりました。

家族としか交流せず、家と公園しか行かない平凡な毎日でも、確実に子どもは成長していました。

そんな成長過程を間近で見れたのも、この時期があったからこそです。

あの時間はとても貴重だったなと今なら思えます。

続・お金の勉強にハマった話

1人目の育休に引き続き、ポイ活とお金に関する情報収集を続けていました。

ポイ活も1年続けると大分要領よく、プロ級になってきました。

SNSでお金の情報収集をしていると、

いかに今までの私の知識が銀行寄りに偏っていたかが分かってきます。

例えば、

投資をするならインデックスファンドが負けにくいらしい

保険と投資は分けた方がいいらしい

貯蓄型保険は手数料がやばいらしい

ネット証券でNISAをやった方がいいらしい

ちょっと知ってる人にとっては当たり前なことも、

当時の私にとって新発見でした。

こんな情報を知ってしまうと、

今までのように窓口でNISAや保険を勧めることに抵抗を感じて来ました。

怪しい投資サロンに入って50万円溶かした話

ここで大きな勉強代を払いました。

恥ずかしいですが、暴露します。

お金の勉強をしていくうちに、

コツコツ積み立て長期投資がいいらしいということは分かりました。

でも、私は今すぐに使えるお金が欲しかったんです。

しかも数百万。なぜなら子どもたちを連れてタヒチに行きたいから。

そんな考えであるオンラインサロンに加入しました。

それは、短期で爆益を得る方法を教えてくれるというもの。

はい、怪しいですよね、絶対騙されてますよね、分かります。

でも浅はかな私はそこに入って爆益が得られる未来にワクワクしていました。

言われた通りにやると、最初は本当に簡単に利益を出せました。

すぐに会費を取り戻すことができました。

これはすごい。

このお金が膨れ上がって億万長者になれることを夢見ていました(←)

もちろん、上手くはいきません。

ちょっとの利益を積み重ねたと思った瞬間

それをはるかに超える大きな損失を出してしまうのです。

いわゆる「コツコツドカン」というものです。

損失を取り戻すため、少しずつ入金額が増えていきました。

そして繰り返すコツコツドカン。

損失はどんどん膨れ上がっていきました。

信じて任せてくれてる夫に申し訳なさすぎる

コツコツ稼いできてくれてるお金を私ってやつは…

毎日胃が痛かったです。

しかも、値動きが気になって子育てどころではありません。

可愛い盛りの子どもよりスマホの数字を見ていた最悪な母です。

かなりの損失を出したところで「もうこれは無理かもしれない」と、

サロンに入ったまましばらく静観していました。

すると突然、サロンがなくなりました。

どうやらサロンの代表者が詐欺被害で逮捕されてたようなのです。

本当に高すぎる勉強代でした。

楽して稼ごうなんて思ってはいけない、

身をもって実感した出来事です。

2度目の育休復帰

今後のキャリアについて考える

2度目の復帰時は1度目とはかなり景色が違いました。

明らかに年下の後輩が上司になっていて、

新しく出会う上司も年下が増えていました。

「あぁ、育休を取るってこういうことだよな」と実感。

今後のキャリアが不安になりました。

そもそも上昇志向がなかった私は、管理職になりたいなど全く考えていません。

でもそうじゃない場合一体何をやるの?

今と同じことをやり続けるの?

そもそも一生銀行でいいの?

そんなことをひたすら自分に問いかけていました。

3人目の妊娠

復帰して数カ月が経過し新しい支店に慣れてきた頃、3人目の妊娠が発覚しました。

実は少し前に3回目の妊娠で流産してしまっていたため、

今回の妊娠もそうなのでは?と不安でたまらない日々を過ごしていました。

生理周期がずれていたためか心拍の確認もなかなかできず、

あまり期待しないでおこうと思っていました。

それでも無事心拍が確認できた時は心底安心しました。

3人目も例にもれず、先の見えない辛い悪阻との生活が待っていました。

仕事中にポカリやグミで気持ち悪さを紛らわせ、何とか耐える日々。

辛かったけど、ちょうど同じタイミングで妊娠し、悪阻と闘っている同僚を発見。

ある日突然ポカリを飲み始めたので気が付きました。一緒に悪阻と闘う仲間がいたので頑張れました。

悪阻が落ち着いた頃、少ない育休手当をこれ以上減らさないため、

またフルタイムに戻しました。

コロナのおかげで…

本来の育休に入る数カ月前、

コロナの状況が悪化していました。

保育園でクラスに感染者が発生し、「今すぐお迎えにきて」との電話。

そこから10日間の自宅待機。

それが2.3回ありました。

支店内でも感染が拡大し、上司の判断で妊婦は自宅待機させてもらえることになりました。

実質有給休暇です。

これは本当にありがたかったです。

思いがけない一人時間をいただき、簿記の勉強をしました。

2022年~出産・育休

思ったより辛い3人目の出産

3人目の出産は深夜でした。

陣痛から3時間。元気な男の子が誕生しました。

1人目の10時間に比べたら短いし、

助産師さんに言わせると超安産らしいですが、普通にしんどかったです。

1人目2人目の時は皆が会いに来てくれましたが、

コロナ禍の出産なので分娩時に夫がいるのみ。

入院中は赤ちゃんと2人の生活。

私は赤ちゃんのことだけ考えていられるこの入院期間が大好きでした。

いつも生まれたての赤ちゃんとの生活は、何とも言えない神聖な気持になる時間でした。

入院最終日に病室から見た夕日は今でも忘れられません。

そして退院の日。

上の子2人は入院延長して私だけ先に退院だったため、

何の異常もなく一緒に退院できたのは3人目にして初めてで感動的でした。

上の子の意外な反応

上の子2人はそれぞれの祖父母の家に泊まり、楽しい5日間を過ごしていました。

意外だったのは、長女が赤ちゃんの誕生をものすごく楽しみにしていたこと。

初めて弟が生まれたときは、戸惑い、ママがとられた感覚があったのかもしれません。

弟を可愛がるというより、「敵」のような感じで意地悪したりして。

なかなか上の子に優しくできませんでした。

5歳になった長女は赤ちゃんとの対面をすごく喜んで、心の底から可愛がっていました。

こんなに長女に母性があったのか、と新しい発見。

「赤ちゃんの手ちっちゃいねー」

「あっ今あくびした!」

と、赤ちゃんを見て気付いたことを逐一報告してくれました。

私の見様見真似でオムツを替えてくれたり、おもちゃであやしてくれたり、頼もしい存在になっていました。

長男もまた、お姉ちゃんの真似をして弟を可愛がってくれました。

成長した娘のおかげもあり、この時は「上の子可愛くない症候群」は発生しませんでした。

孫のように可愛い3番目

3人目は驚くほどかわいくて、ただただ可愛いと愛でる毎日。

何かで見たことがありますが、3人目が1番可愛く見えるのは、

上の子2人の赤ちゃん時代と重ねているから。

めちゃくちゃよく分かります。

もうこんな赤ちゃんを育てることもないと思うと、

毎日が愛しくて仕方ありません。

と同時に、どんどん大きくなってしまう上の子たちの今の姿を

しっかり目に焼き付けておきたいと思うばかりです。

2022~現在とこれから

1人目を出産してから思い続けていたこと。

それは、「仕事をどうにかしたい」です。

自分で好きだと思える仕事をしたい。

子どもと過ごせる時間を増やしたい。

そのために…

1人目の時はポイ活に出会い、ちょこっとお小遣いを稼ぐ方法を知りました。

2人目で身をもって大損することで、正しい資産運用にたどり着きました。

3人目で自己投資をして、稼ぐ力をつけるべく奮闘中。

ここまで長い時間をかけました。

漠然と「自分で稼げるようになりたい」という気持ちはずっとありましたが、

何をすればいいかわかりませんでした。

何かの役に立つかなと簿記の資格を取ってみたり、

ブログ執筆のYouTubeを見てみたり、

私にできることはないか色々探しました。

そこでたまたま見つけたSNS発信のオンラインサロンに加入してみたこと、

これが大きなきっかけになりました。

そこから自己投資をいくつもして、

現在は副収入としては十分な額を稼げるようになりました。

でも、私の目標は「本業を辞めること」です。

今のままでは本業を辞めることはできません。

これからやっていきたいこと

私がこれからやっていきたいことは3つあります。

1つ目は、悩めるママさんの力になるべく、相談業を始めること

2つ目は、アフィリエイトで本業を超える収入を得ること

3つ目は、本ブログを通して、私の経験から役立つ知識を提供すること

そのために、私に必要なのは行動し続けることだと思っています。

行動に移す前に「○○だったらどうしよう」と考えると動けなくなってしまう性格なので、

失敗を恐れずにとにかく行動することを目標にします。

具体的には、相談業を仕事にするため、

4月までに3人のフォロワーさんと個別面談をすることが目標です。

私はこの2年で過去最大の自己投資をし、

今までの私では有り得なかった、副収入を得る力を身に着けることができました。

これからも目標達成のため、より良い価値提供をするため、

自己投資も続けていきます。

このブログを通じて伝えたいこと

私は本ブログを通じて

3人の子を持つどこにでもいるワーママが本業を辞めるべく奮闘していく姿と、

働きながら子どもを育てるママのお悩み解決の手助けになる情報、

今を楽しく、未来も豊かに生きるための知恵

をお伝えしていきたいと思っています。

私の経験と発信が、仕事に子育てに悩めるママさんの力になりますように。

ここまで長いプロフィールをお読みいただきありがとうございました。